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『自分勝手』で人間は「自分勝手に幸せになって、自分勝手に不幸になる」と書きましたが、これ他人に何かをする時も同じだとみわは考えています。
『こうしてあげたから満足だろう』とか『こうしなかったから恨まれるかも』とはあくまでも「個人の感想」であってそれ以上でも以下でもないのに、それを間違える人が多い多いw
人間関係の大部分の不幸は、この認識の差を埋めずにほっとくから起きてる気がしますネ。
「相手を思ってしたこと」=「相手がしてほしかった」事で無いのは、極端な例ですがストーカー事件の加害者と被害者の認識の差を頭に描いてもらえれば分かりやすいかな?
こちらに自由意思があるように相手にも自由意思があるわけで、お互いの「いい」はそう簡単に重ならないものだと思えば、相手の反応が自分の望まないものであっても「しかたない」と思えるものではないでしょうか。
助けたいと思う人間がいくら手を伸ばしても、相手が助かりたくないと思えば救えない。
ある出来事を「幸福」と思うか「不幸」と思うかはその人次第。
……的なw
あ、これ、もちろんですが教育とかしつけは含んでませんよ!
社会を構成していく上で「最低限の知識」や「最低限のマナーやタブー」の共通認識がないと、共同体が崩壊しますからネw
そういう教育やしつけではない部分での、自分と他人の認識のズレを許容したらいいのにって事です。
こちらの考えが自分のエゴから出ているものだと認識すれば、他人のエゴもムカつくかもしれませんが(笑)そういうものだと思えるもの。
自分も相手も同じく「自分勝手」に言ったり行ったり判断したりしてると思えば……ムカつくことも無い……いや、そこまでは無理かw(と己を振り返る ←
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『あいまいだからどうにでも』で他人の話を自分の物差しで量らないようにしてるって事を書きましたが、聞くときはアレでいいと思うのですが『聴く』とか『訊く』時はその限りではありません。
柔軟に他の意見をとりいれるのは大切ですが、それで自分が無くなったら本末転倒なわけですから、そこはしっかり裏の裏まで見るつもりで、穿った目でいるべきかと思います(殺伐としてんなw
単純に「いい考えだ」って思ってソレを実践するのもいいのですが、それは元を考えた人にとっては最適だけど、万人にとっての最適かと言われたら違うよねってみわは思うんです。
少しでも「ん?」と思う事があったら立ち止まって、自分の頭で考えるのが重要かなって思ったりw
・なんでああいわれたのかな? そう思わせる要素があったのかな?
・あの人の立場だとこう見えるのかもしれないけど、自分はこう見えるな。
・今の現象は他の……今の科学や文明レベルで解き明かされてない現象かな?
・信じてその果てに何を求めるの? 現世利益? 精神的満足?
・その幸せは誰にとっての幸せなの?
・物理的に救われたいと思ってるのを精神的に救って、それは救ったことになるのかな? すりかえじゃないの?
・その教えに従う前に、自分でやること全部した? ほんとに? もれなく?
・私はこの考えをいいと思った。でも他の人はどう感じるんだろう? この考えを知らなかったように、これを他人がどう思っているのかも、今はまだ自分は知らないわけだから、そこはしっかり調べとくべきだよね?
・これがベスト? もっと別のやりやすい考え方(やり方)はないのか?
・正しいとか正しくないは結局、個人の利益に関わってくる問題に密接に絡んでくるよね。
……とかとかw
他人のタスキは自分にぴったりになはならないモノ。他から受け取ったモノは、自分の型にしっくりくるように加工してから使いましょうw
……何かを信じただけで「幸せに」とか「今より良くなる」って思っちゃう人はそこんとこ間違えてる気がするんデスよね。
なんでも基本は自己責任・自助努力ですからネ! ← 身も蓋もない
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幸せと不幸せの線引きって人によって違うから難しいですよね。
みわには耐えられるけど他の人には無理とか。
他の人には大丈夫だけどみわにとっては死ぬほど辛いとか。
厨二病的にいえば、受け取る人によって善にも悪にも、幸にも不幸にも、考え方一つで世界はその姿を変えるわけですw
なので、悩み相談(ライトなものからヘビーなものまで)っぽい話になった時は、これだけはしないようにって気をつけていることがあります。
『自分の物差しで他人の話を量らない』
みわの意見が聞きたいといわれない限りは、自分ルールでこれを守るようにしています……完全ではないですが。汗
どれだけ荒唐無稽な話をされても、それはその人にとったら真実なわけで、それを安易に否定するのはゴーマンだなぁって、みわは思うので。
どっちかっていうと、みわもマイノリティ領域に生きてるので(モバイルオタクだしw)大多数からの全否定とかは日常茶飯事でありましたし、それで「お前に何がわかるんだ!」って思った事もありますから。
自分がやられて嫌だった事は他の人にもしないとか、相手の立場に立って考えるとか、小さい頃うるさいほどいわれていた事を、人間はなんで成長すると忘れちゃうんでしょうね(モチロンみわもですがw
あ、間違ってるのがあからさまな場合(犯罪思考とか)はこの限りではないですよ。当たり前ですがw
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よく「今の物質社会を脱して精神世界に~」とかスピリチュアルのとこでは当たり前かのように言われてますが、本当にそうなの~? とかみわは思っちゃいます。
確かに人生の価値観の全部が「物質」の場合。
お金持ってなかったら、それだけで欲しいものが買えなくて「自分は不幸だ」って思いやすいと思う。
でも人生の価値観が全部「精神」だったら幸福なのかというとそれも違う気がする。
だって目に見えないものは「限界も見えない」訳だから、これも物質に対する欲の際限が無いのと同じで、結局満足することなくて「自分は不幸だ」ってなんないカナ?
なんでも反対のものがあって成り立ってるわけだから、バランスとってねという指摘ならともかく、なんでもかんでも「精神」に重きを置けばいいってわけじゃないんじゃ……と。
それにもっと言えば、今は人間の科学力(文明力? なんだろうまい言葉が見つからない。汗)がなくて「物質」と「精神」が切り離されて考えられてるけど、みわ的にはどう考えてもこれらって地続きな気がしてしょうがないんですよね。
例えば科学だってちょっと前と今とでは常識とされてるものが違います。
天動説が当たり前だったころは『地面が動くとか馬鹿じゃないw』って感じだったし。
薬草知識がある人を『魔女』として迫害し。
自然現象や人体の事を調べると『キチガイ』扱い。
他にも常識は日々書き変わっていってるわけで『今日のオカルトは明日のリアル』なんじゃないかと……そんな事を思ってみたりw
現代医学のように霊能者が扱われて、市民病院に行ったら「心霊科」とかあったり、心霊現象に対する処方箋があったり、施術があったりとか……そういう未来早く来ないカナw
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因果応報って大抵は悪いこととして語られるけど、世の中にはいい因果もあるわけですよね?
でも「ずっと前の先祖の因果があなたに~」という話を聞く時、必ず悪い事なのはなんでだろ?
また戒めとして「あなたが~だと、子孫や周囲にその因果が行きますよ」とかは言われるけど「周囲の因果があなたに来てますね」と言われた話を聞かないもの不思議。
そういうものって相互に作用するもんじゃないの?
「カルマの解消が~」というのも同じで、因果応報には良いものも悪いものもあるんだから、カルマというのは人が普通の生活をしていれば、良くも悪くも積み重なるもので、それを解消するのは無理なんじゃないのかな?
ひきこもって誰とも接点を持たずに……いや、存在している事が他に知れた時点で駄目か……うーん難しいなコレ。
昔の怪奇小説にあったみたいな、土蔵とか座敷牢に監禁とか……ああ、それじゃ本人が因果のスタートになるか。悩
あ、あと疑問なのが「先祖の因果があなたに~」といわれる時、大抵はその先祖が原因を作って、結果が子孫にという事だと思うんだけど。
その先祖自体に起きたことが、誰かの因果の結果かもしれないヨネ? と思ったり。
だとしたら、その因果の大元はそれではないって事で。
何世代もの自分トコの因果と、他の人の因果とも複雑に絡み合ってるとしたら「カルマの解消」ってのは全世界の人が「いっせーのせ!」で解消しようと思わないと解消って無理じゃね? とか思ったりします。
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